ここでいう刷り込みってのは教育という名のマインドコントロールのことです。
その教育とは、競争という概念に疑いを抱かせず、社会的な生産性をあげるための歯車としての『いわゆる社会人』を作り上げる作業です。
個人的には何事にも競争原理と自然淘汰が付いて回るという進化論的な価値観にはずっと違和感があるんです。
実は弱肉強食なんて、人類が見聞してきた『世界のカケラ』のそのまたほんの一部分に過ぎないんじゃないでしょうか?
そもそも生き物を種という『単位』で見たら「みんながみんな、そんなにシャカリキに競争なんてしてますかねぇ?」って疑問が湧くのです。
例えばナマケモノみたいな種が現在も生息できているのは、人間が勝手に考える優勝劣敗なんて『ちっちゃな理屈』とはまた違うそれ相応の『大きな理由』があってこの地球上に存在している気がするのです。
誤解のないように申し上げれば、「競争は悪だから、金輪際競争なんてするな!」みたいな極端なことが言いたいわけではありません。
残念ながら、人間社会は人間の考えた所謂『競争の概念』によって様々な事柄が回っていくようにできているのは事実ですので。
ただ、だからといって「弱い者・敗れた者は淘汰されて当たり前なんだ」みたいな理屈を真理として受け入れろ!なんて話をされても困るのです。
何故そんなことを言うかというと「競争原理こそがこの世界の『絶対的な基準』だ!」って考え方が、現代の人間の心に深く強くすりこまれているように感じられるからです。
私にはそれが人の心を殺伐とさせる元凶になっているように見えます。
競争を成立させるためにはスタートラインを揃えなければなりません。
どんな競争であれ、スタートが揃えられない競争など虚構に過ぎないからです。
スタートがそろっているように見せるために用意されたのが『平等』という概念です。
もっといえば「人間は絶対的に平等な生き物である」という意味で、「実態はどうであれスタートは揃っている」というアクロバティックな考え方です。
もう一つ競争を成立させるように見せるために考えられたのが『自由』です。
「人間は本質的にどこまでも自由である」という考え方が、「出来ないのはその人の責任!」という自己責任論に繋げられます。
「実態はどうであれスタートを揃えられないのはその人の責任」っていう自己責任論にです。
この自由と平等が、競争社会における『スタートラインの整合性』を保証するのです。
ていうか「保証してくれている」という前提で成り立っているのが所謂『競争社会』です。
自由だの平等だのという言葉が声高に叫ばれる世界は、随分息苦しくて生きづらいんじゃないでしょうか?
「世界は元々理不尽で不条理に出来ている」ってくらいに考えてた方が気が楽です。
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