『クリアー整体ヒーリング』です

ヒーリングにまつわる話や不思議な話など

自然の獰猛さから離れるほど生も死も観念的で軽いモノになる

「生きてる間にどれだけ良い想いをして、死というゴールまで無事逃げ切れるかどうか?」がいわゆる人生の勝ち組を目指す人々の『関心の中心』を成しているみたいです。
ある種の健康法の根っこにもそういう認識はあるんじゃないでしょうか?
「どんな生き様であってもテクニカルに健康で長生きしたヤツが勝ち! 早く死んだ方が負け!」ってな発想がです。
 
むやみに生き急ぐ必要はもちろんありません。
でも、世俗的な成功哲学としての『健康』ってモノにそれほど価値があるとはどうしても思えないのです。
 
世俗的な成功哲学としての『健康』とは「人生80年のゴールを社会的な勝者として迎えたい!」という欲望の行き着く果てのことです。
ある意味唯物論の極北です。
 
最近はそういう考え方が世間の共通認識になってきたように思われます。
その一つの証左が昔の日本人が普通に持っていたであろう『死に対する潔さ』が顧みられなくなったことがあります。
 
顧みられないどころかダサくてカッコ悪いモノとして認識している人が少なくないんじゃないでしょうか。
物理的に生きてることや健康であることが「何よりも価値がある!」と考えられてる気がします。
今の世の中で「人間には時に生命より大切なモノがある」なんてことを言うと、すごくクレイジーでカルトチックヤツだと取られかねないのです。
 
もちろん肉体を大切にすることや健康であることは大切に決まっています。
生命を粗末にしていいわけがありません。
そんなことは「百も承知・二百も合点」の上でなお、「場合によっては生命より大切なモノが人間にはあるんだよ」と申し上げているのです。
 
でも、そういう発想は「どんな生き様であってもテクニカルに健康で長生きしたヤツが勝ち! 早く死んだ方が負け!」ってメンタリティからは出てこないと思うのです。
むしろバカバカしくて無意味なことだと感じるだけなんじゃないでしょうか?
 
じゃあ、そもそも何故世俗的な成功哲学としての『健康』ってヤツがどんどんモテ囃されるようになってきたのか?
それは医学の進歩とともに人間のチカラによって死がコントロール可能なモノとして認識され始めたからではないでしょうか?
 
一番分かりやすい実例としては昔でいう植物人間、脳死状態の人が挙げられます。
自律的な生命活動を行えなくても、機械に繋げば生物学的には生きているという状態を維持出来るのです。
 
そういう事例を経験したため、昔は暴君のように突然無慈悲にやって来ていた『死というモノ』に対して「人間が科学的にコントロールすることは十分可能だ」と多くの人々がが認識するに至ったのです。
そして、それは人間が生と死に対して長年培ってきた諦めと絶望の感情を一変させました。
 
その結果インフラ完備の都会の中で生きてりゃ、死は「滅多に会うことのない田舎の親戚のオッチャン」くらい縁遠くなったのです。(感覚としてね)
ただ、獰猛な自然の中に入ってしまえば今だって生と死の狭間は薄紙一枚ほども離れちゃいないません。
 
そういう場に居れば「生命より大切なモノが人間にはあるんだよ」って話が少しは身にしみてくるでしょう。
否が応もなくね…
 
 
 
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