ここでいう唯物論的な考え方ってのは簡単にいえば「自分が直接見たり聞いたり触れたりするモノ以外はマヤカシだ!」って発想のことです。
例えば幽霊否定派の人はよく「幽霊なんているわけない!何故なら自分はそんなモノ見たことがないからだ!」みたいなことをおっしゃいます。
幽霊がいない根拠は結局「自分が見たことがない」ってだけのことです。
唯物論的な考え方に染まれば染まるほど『世界』は自分サイズの時空間に収縮していきます。
あくまでも「その人自身に見えたり聞こえたり触れたりする世界が」の話ですけどね。
具体的にいうと先ほども申し上げたように、長くても自分の人生という時間のサイズ以内でしか物事を考えられなくなります。
あと、自分の社会経験の範囲内、それもいいとこ6割・7割くらいのサイズで思考するようになります。
もう一つ自分のよく行ったところ、住んだところなどで得た知識のサイズの、これもいいとこ6割・7割くらいで結論を導き出すようになるでしょう。
「世界が自分サイズの時空間に収縮する」とは大体こんな感じです。
諺でいうと「井の中の蛙大海を知らず」でしょうか。
で、最近こんな文章を拝見しました↓
戒名は坊さんが金を稼ぐために理由をつけたもの。人間は死んだらもう終わり。目も口も脳も無くなるのだから名前なんていらない。
戒名ってのが必要なのか必要ではないかってことはここでは語りません。
個人的にあまり興味がないからです。
「人間は死んだらもう終わり。目も口も脳も無くなるのだから名前なんていらない。」ってことを語ります。
これって多分「一人の人間の存在が死とともにすべて丸ごと何もかも消失する」って意味ですよね?
簡単にいえば「魂なんて物理的でないモノはあるわけない!」っていう思想です。
であるならばその思想は当然、「位牌も墓も必要ないし、弔いという概念自体何一つ必要ない!」ってところまで行き着くだろうと思うのです。
逆に「人間は死んだらもう終わり!」と本気で信じているのに弔いなんて本気でしていたら『偽善の極み』でしょう。
だって、彼或いは彼女は完全に跡形もなくこの世界から消滅したのだから(その人の頭の中ではですけどね)
個人的には弔いは生きている人のためにあるモノだと思います。
なので、生きている人間の側で必要ないと思えばやめてもいいのかも知れません。
ただ、物理的な世界に超えた超自然的な存在に対する『畏れ』を失えば、その人の心は必ず狭量で刹那的になるでしょう。
それは先ほど申し上げたように「世界が自分サイズの時空間に収縮する」からです。
当たり前ですが、この世界は一人の人間の範疇を遥かに超えています。
そのことの意味を真摯に捉えるなら『畏れ』は自ずから生まれるのではないでしょうか?
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