人間にとっての『善悪』というのは確かにあります。
しかし、それはどこまでいっても人間の人間による人間のための「善いとか悪いとか」です。
だから、善だの悪だのといったってどこかに不変不動のモノとして独立して存在しているわけではありません。
どこかっていうのは人間とは全く無関係な「どこか」ってことですけどね…
善悪は普遍の真理などではないってことです。
十人十色の人間によって用意された『物事を計るためのモノサシ』の一つに過ぎないのです。要はどこまで行っても相対的なモノだってことです。
じゃあ、何故善悪というモノが考えだされ、必要とされてきたのか?
それは「社会的な生き物としての人間を律するモラルとして」だと思います。
社会生活を行う上でのモラルとして善悪の判断は必要であるということです。
しかしながら、人間の社会というモノは有為転変止まるところを知らず、あっという間に変わりゆくモノです。
ということは当然その変化に合わせてモラルってヤツもドンドン変わっていきます。
人間社会のモラルが変わるってことはそれに連れて善悪の在り方も変わるってことです。
本質的に善悪は常に変わりゆくモノであるってことなのです。
例えば戦争中は鬼畜と呼ばれたアメリカ(悪)のイメージは、日本が敗れた途端キラキラ輝く自由の国(善)へと変わりました。
日本の社会の在り方が変わったので、善と悪の社会的イメージが入れ替わったのです。
で、最近こんな文章を拝見しました↓
12年読書を続けてきて、もっとも衝撃をうけたのは、「日常に悪なんて存在しなくて、いつだって正義と正義の衝突」だと知った瞬間です。『勝った方が正義』という言葉は、残念ながら的を射た事実だと理解した反面、「純粋な悪なんて殆どいない」と気づき(後略)
「正義と正義の衝突」っていうのを私の言葉でいえば正しいの比べっこってことになるでしょう。
「勝った方が正義」というのは「正しいの比べっこがいつもチカラ尽くで行われる」ということと対応しています。
目の前に100人の人がいれば100通りの「正しい!」が存在します。
みんな自分が正しいと思っているからです。
もしその100人の中の1人が自分の「正しい!」を何処までも妥協なく押し通そうとすれば最終的に何らかのチカラを行使して相手を捩じ伏せるしかなくなります。
万人が心から納得する「正しい!」なんて何処にもないからです。だから、正しいの比べっこは結局チカラ尽くになるのです。
ただ、この方はまだ純粋な悪がいささかでも存在すると信じているようです。
純粋な悪を信じるということは、すなわちその純粋な悪と対極にある純粋な正義を信じているのと同じことです。
それはいつか必ず新たな争いの素となるでしょう。
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