例えば『現実に犯罪が多発しているのを事実として認識すること』と『現実に多発しているのだから犯罪はあって当たり前と思うこと』は全く違う話です。
実際に犯罪はあるけど、あくまでもないのが理想の姿であり、そこに向かって努力し続けるのが『現実』です。
つまり、『現実に存在することを「そんなこともあるんだな~」と単に事実として認識すること』と『その現実を自分の心の奥まで入れ込んで「そうだ!そうだ!その通りだ!」と全面的に共鳴し、賛同すること』は別だってことです。
なので、「人は結局無力なのですべての人間の命を助けることなど出来ないということ」と「助けられないんだから最初から切り捨てても構わないと思うこと」は話が違うのです。
事実を認めた上で「だが、しかし」とやることも可能だからです。
何度もしつこく言いましたが、この2つのことをごちゃごちゃにして「あるんだから素直に認めろよ!」的なことをおっしゃる方が結構多い気がします。
或いは目の前の事実に迎合して「キレイゴトを言うなよ」と鼻で笑ってみたりね…
「認識すること」と「容認すること」をごちゃ混ぜにすればするほど、その人の心の中では自分が容認したモノが『あって当たり前のこと』として馴染んでいきます。
あくまでもその人の心の中での話ですけどね…
で、ここからが本題です。
最近の人の命に対する価値観の変化についてです。
以前にも書いたことがありますが、新型肺炎が流行り出してから、「免疫力の劣った人間は、死んでもいいとまでは思わないが、結果的に死んでも仕方がない」という切り捨て御免の人間観があちこちで頭をもたげ出した気がします。
これは新しいカタチの優生思想であるとも申し上げました。
そして、先ほど「人は結局無力なのですべての人間の命を助けることなど出来ないということ」と「助けられないんだから切り捨てても構わないと思うこと」は別の話だと書きました。
現実に助けられない命は必ず存在するけれど、あくまでも目の前にある命を助けようとするのが理想の姿であり、そこに向かって努力し続けるのが『現実』です。
助けられないんだから、最初から見捨ててもいいんだというのは人のカタチとして如何なものかと思うのです。
少なくとも個人的には真っ当な人間の心の在り方とは思えません。
人間の体は絶えずどこかが毀れている、そしてそれを、絶えずどこかで治している。 毀したり治したりしながら生きているのである。 だから、治っているから健康であるとか、毀れているから病気であるとかの区別はつけられない。
健康と病気の狭間で絶えず揺れ動きながら進むのが、人間に与えられた『現実』だってことです。
人はいつか必ず死ぬものだけど、死ぬまで必死に生き続けるのが『現実』なのです。
最初から見捨ててもいい命など一つもありません。
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